「ハイリゲンシュタットの遺書」と呼ばれるその手紙には、自殺を考えたことが率直に記されている。「あと少しで、自ら命を絶つところだった」
1802年秋、ウィーン郊外のハイリゲンシュタットという小さな村に、31歳のベートーヴェンはひとりこもっていた。医師に勧められての療養だった。理由は耳だ。数年前から始まっていた難聴が、もはや隠しようのない段階に達していた。
作曲家にとって、耳が聞こえなくなるとはどういうことか。彼はその問いと正面から向き合いながら、弟たちへの遺書を書いた。後に「ハイリゲンシュタットの遺書」と呼ばれるその手紙には、自殺を考えたことが率直に記されている。「あと少しで、自ら命を絶つところだった」と。
そもそも彼の出発点は、恵まれたものではなかった。父ヨハンは酒に溺れた失意の音楽家で、幼いルートヴィヒを「第二のモーツァルト」に仕立て上げようと、深夜まで鍵盤の前に座らせた。厳しいというより、残酷な訓練だったと伝わっている。11歳で宮廷楽団の助奏者となり、17歳で母を失い、父の酒代を稼ぐために演奏の仕事を続けた。
1792年、ウィーンへ出てヨーゼフ・ハイドンに師事したことで、彼の音楽は世界に開かれ始めた。演奏家としての名声も徐々に積み重なった。しかしその矢先、耳鳴りが始まる。社交の場で人々の声が聞き取れず、会話を避けるようになった。「聴覚を失った音楽家」という事実が知れ渡ることへの恐怖が、彼を孤立させた。
ハイリゲンシュタットで遺書を書いた同じ年、彼は交響曲第2番を完成させた。そして翌年から、後に「傑作の森」と呼ばれる創作期に入る。交響曲第3番「英雄」、第5番「運命」、ピアノソナタ「月光」——それらのほとんどは、聴覚が確実に失われていく時期に書かれた。
第9交響曲を初演した1824年、ベートーヴェンはほぼ完全に耳が聞こえなかった。指揮台に立った彼は、演奏が終わっても客席の拍手に気づかず、後ろを向いたままだった。隣に立つ独唱者が彼の袖を引き、客席の方へ向かせた。そこには、総立ちの聴衆がいた。
音楽家が耳を失うことは、不条理以外のなにものでもない。それでも彼は書いた。遺書を書いた手で、楽譜を書き続けた。その事実だけが、今もページをめくる者の胸に静かに落ちてくる。
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