「英雄であるべきスポーツ選手」が国家に反旗を翻した、というのが大多数の見方だった。スポンサーは去り、講演の招待も干上がっていった。かつて「俺は最強だ」
1967年4月、モハメド・アリはアメリカ政府からの召集令状を前に、静かにこう言った。「私はベトナムの人たちと何の恨みもない」。その言葉の代償は、想像を絶するものだった。
ボクシング界は即座に反応した。ニューヨーク州アスレチック・コミッションはライセンスを剥奪。世界ボクシング協会はタイトルを剥奪。25歳のアリは、キャリアの絶頂期に、リングという居場所を丸ごと奪われた。
それだけではなかった。連邦裁判所は徴兵忌避の罪で有罪判決を下し、禁固5年・罰金1万ドルの判決が確定した。パスポートも没収された。海外で試合をする道も、閉ざされた。
世論は冷たかった。戦時下のアメリカで「英雄であるべきスポーツ選手」が国家に反旗を翻した、というのが大多数の見方だった。スポンサーは去り、講演の招待も干上がっていった。かつて「俺は最強だ」と叫び続けた男が、大学のキャンパスを転々としながら講演で生計を立てる日々を送った。
3年以上。その間、アリはボクシングができなかった。アスリートにとって20代後半は、肉体的なピークだ。取り戻せない時間が、音もなく流れていった。
1970年、最高裁が上告を認め、ようやくライセンスが戻ってきた。しかし復帰後の現実は甘くなかった。1971年、「世紀の一戦」と呼ばれたジョー・フレージャー戦で、アリは初めてプロで敗北を喫した。ダウンを奪われ、判定で負けた。ブランクは確実に、肉体に刻まれていた。
それでも彼は続けた。1974年、32歳のアリはザイールの夜、王者ジョージ・フォアマンと向き合った。誰もが彼の勝利を信じていなかった。フォアマンは圧倒的な破壊力を持つ若い王者だった。
アリはロープに背中を預け、打たせ続けた。「ロープ・ア・ドープ」と後に呼ばれる戦法だった。8ラウンド、消耗したフォアマンに渾身の右を叩き込み、KO勝ち。世界ヘビー級王座を奪還した。
奪われた3年間は、帰ってこない。しかし彼は、帰ってこないものを嘆くより、今あるものでリングに立つことを選び続けた。敗北も、沈黙も、孤立も、すべて積み重ねてそこに立っていた。
すべてを失った後にまだ残るものが、その人の本当の強さだ。
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